05 ー 牛、生きているから戻ってこないか

今野さんを含め、津島地区にとどまっていた酪農家へ役場が状況を伝えに来ることは皆無だった。酪農家はフリージャーナリストから借り受けた放射線量計で現実を知った。当時の放射線量は今野さんの牛舎内で毎時10マイクロシーベルトを超えていた(2011.4.18)



西へ向かえ…だけが頼るべき指針だった


 2011年3月15日早朝。三瓶利仙さん(55)は深夜に親戚たちが次の避難先を求めて慌ただしく出ていくのを見送りながら、自らの避難についても考え始めていた。妻の恵子さん(54)は居間のこたつで眠れぬまま朝を迎えていた。2人は目に見えない恐怖を感じ、夜が明けたら浪江町津島地区から離れることを決断していた。しかし避難先にあてはなかった。夫妻の頭にあったのは、葛尾村の親戚から言われた「西へ向かえ」という言葉のみだった。

「最初は夫と2人で福島市内にある県立医大近くの避難所を目指したんだけど、そこは断水のためすぐに駄目になるよと言われ…。どこへ行ったらいいのかわからずに悩んでいたら、ほんとにドラマチックなんだけど、親戚から携帯電話に『猪苗代に使っていないリゾートマンションがあり、その余っている部屋を使ってくれ』と連絡があったの」

 早朝に自宅を発った三瓶さん夫妻は先に避難していた親戚と合流し、この日から親族11人でリゾートマンションでの避難生活を送ることとなった。猪苗代湖畔の15階のリゾートマンションに2人がたどり着いたのは夕方で、外は雪が舞い始め冷たい風が吹いていた。


片道80kmを往復する日々


 津島地区でも夕方から降り出した雨が夜になると雪に変わっていた。恵子さんの実弟、今野剛さん(49)は父・幸四郎さん(74)と搾乳作業を終えると、前日につくられたカレーを温め直し、2人で食卓を囲んだ。鍋いっぱいに入ったカレーは昨夜まで今野家に身を寄せていた人数分あり、30人は賄える量があった。がらんとした母屋には昨夜の慌ただしさを物語るかのように前日まで使われていた布団が畳まれることなく広げられていた。剛さんは食事が終わると、母屋の隣に建つ新居へ戻って眠りについた。新居は2007年に建てたばかりで、2階には2人の子どものために飾られたひな人形がしまわれることなくそのまま置かれていた。母と妻、子どもたちは須賀川市内で暮らす義妹宅へ避難していた。

 翌16日。剛さんは牛舎作業を終えると、体型審査でEX-94点を獲得した「ユニオンデール ダンディー ガール」をダンプカーに乗せ、石川町で酪農を営む友人の小豆畑正一さん(52)のもとへ向かった。牛が滑らないように荷台に山砂を敷き詰め、雪よけと寒さ対策のために荷台枠をシートで覆った。剛さんは「出口のないトンネルに突然放り込まれたような心境のなか、なんとかこいつ(ユニオンデール ダンディー ガール)だけは助けたい」との思いで必死だった。

 ダンプカーを運転する剛さんの後を幸四郎さんが乗用車で続いた。しかし乗用車は途中で燃料切れとなり、乗用車はその場に置いていくことになった。営業中のガソリンスタンドはどこも長蛇の列で、数時間並んでも手に入るかどうか分からない状態だった。ガソリンの入荷が追いつかずにタンクが空になる店舗は福島県内でも少なくなく、営業休止の貼り紙を見ることは珍しいことではなくなっていた。

 小豆畑さんの牛舎へ愛牛の「ユニオンデール ダンディー ガール」を預けた剛さんは小豆畑さんの自宅に寝泊まりしながら、津島地区にある自分の牛舎へ通った。石川町から津島地区までは片道80kmほどもあったが、原発事故前に調達していた軽油が自宅に400Lほどあったため、ダンプカーで往復する限り燃料不足を感じることはなかったという。

 小豆畑さんの家族もよそへ避難していたため、剛さんは小豆畑さんの牛舎で10頭ほどの哺乳を手伝った後、自分の牛舎へ出かけていた。毎朝午前9時前後に自分の牛舎に着き、バンクリーナーを回した後に搾乳を行った。当時の搾乳頭数は40頭で、搾った生乳はバルククーラーを経由して尿処理槽へ廃棄した。3月10日を最後に集乳車は訪ねてくることはなく、1日2回だった搾乳は午前中のみ行い、5回だった給餌を2回に減らし給餌量を抑えた。廃乳せざる得なくなった生乳が牛や自分の涙のように思えて仕方なかった。午後5時ころに作業を終え、石川町へ戻る日々を続けていた。

浪江町の対策本部が二本松市へ移ってから、津島地区には情報の一切が入らなくなった。避難対象地域のため人がいないとされた。現地にとどまり続けた今野さんなど畜産農家は、テレビとラジオから情報を得るしかなかった(2011.4.18)



布団をかぶり涙を流す


 3月19日午後、政府は浪江町と接する川俣町の酪農家から採取した原料乳から当時の暫定基準値(放射性ヨウ素は原乳1kgあたり300ベクレル、牛乳は同100ベクレル。放射性セシウムは牛乳同200ベクレル)を超える放射性物質「ヨウ素131」が検出されたと発表。さらに19日に福島県が緊急採取を実施したいわき市と新地町、飯舘村と国見町の検体からもそれぞれ暫定基準値を超えるヨウ素131が検出される事態となった。福島県産生乳で広範な放射性物質汚染が確認されたことを受け、厚生省は「原子力災害対策特別措置法」に基づく総理大臣指示として、21日に福島県知事へ県産の原料乳出荷を「当分の間控えるよう、関係事業者に要請する」ことを指示した。

 福島県産の生乳出荷停止は原発事故による警戒区域外の酪農家を驚かせ、消費者を混乱させた。小豆畑さんの牛舎でも、搾乳した生乳はその場で廃棄となった。

 猪苗代湖のリゾートマンションに避難した恵子さんは初日から眠れず、寝床につくたびに涙がこぼれて仕方なかった。小豆畑さんへときどき電話をかけてはみたが、黙って避難した負い目と悲しさが入り交じり、弟の剛さんへ話し掛けることはできなかった。夜になると周りに聞こえないように布団をかぶり、夫の手を握って泣いていた。


牛に詫びながら水を運んだ


 福島県知事へ県産生乳の出荷停止指示がなされた翌日、剛さんは自宅へ向かう途中、ふと思い立って三瓶さんの牛舎へ立ち寄った。不安を覚えながら牛舎をのぞくと、首にロープが絡まった1頭の牛を除き、他の牛は衰弱しながらも生きていた。思わずその場で三瓶さんの携帯へ電話をかけ「牛、生きているから戻ってこないか」と伝えた。

 ちょうどそのころ三瓶さん夫婦はコインランドリーへ出掛けるところだった。恵子さんは当時をふり返りながら、あの電話でもう一度やる気になったと答えてくれた。

「夕方になると子牛の鳴き声が耳の奥で聞こえてきて仕方なかった。避難している間、日中は何にもすることはなく頭の中がおかしくなりそうで、夕食の献立とか洗濯など目の前のことを考えて気を紛らわせてきた。そこへ剛から『牛が生きてる』と知らせがあった。牛へ合わせる顔もなく、置いてきた後ろめたさはもちろんあったが、剛からの電話ですぐ戻らないといけねえと思った」

 夫妻は剛さんからの電話を受けた後、猪苗代湖を後にして津島地区へ向かった。牛舎へ入ると、井戸をくみ上げるポンプが止まっており、空回りしていたポンプは熱を帯び、水の出ない状態だったという。牛が喉の渇きを訴え、牛舎は悲鳴のような鳴き声に包まれていた。恵子さんは水を入れたバケツを運びながら、顔を上げることができなかった。2人は牛へわびる言葉をつぶやきながら、何度も何度も水を運んだ。 


行き交う車はなく、集落は完全に孤立


 3月23日。茨城県内でも暫定基準値を超えるヨウ素131が検出され、政府は茨城県知事へ県産原乳の出荷停止を指示。福島県内では4月8日に会津地区7市町の出荷制限が解除(全県で出荷制限が解除されたのは同年10月7日。ただし警戒区域などを除く)となり、茨城県は4月10日にすべての県産原乳出荷制限が解除された。

 避難住民を含めると一時は1万人近くまで人口が膨れあがった津島地区も浪江町の災害対策本部が二本松市へ移ってからは住民の姿が消え、残っているのは畜産農家ぐらいといえた。日々の往復に体力的な限界を感じていた剛さんも石川町から津島地区へ戻り、3月25日には小豆畑さんに預けていた愛牛も元の牛舎へ移していた。集落内は行き交う車もなく、津島地区では郵便や宅急便だけでなく行政サービスからも取り残され、孤立した状態が続いていた。

(続く)


*年齢は当時(記事執筆は2013年5月)